子どもはいつも家族のことを知りたがっている〜施設で暮らす子どもの家族への思い〜

「家族が一緒にくらすことは当たり前」という価値観が強い日本ですが、家族と離れてくらさざるを得ない子どもたちがいます。彼らは、親からの虐待や貧困、親の心身の病気などが理由にあり、施設で暮らしています。

 

 

家族と離れて施設でくらしている子どもは「ふつうの」子どもと変わらず、楽しく毎日を過ごしているように見えます。

 

朝起きて学校が行くのが楽しみな子どももいれば、勉強が苦手で行き渋る子もいます。高校生になれば携帯電話を持って、その世界にはまったり、アルバイト仲間が出来て大人には見えにくい交友関係が出たりします。

 

今回は、自分の意思とは関係なく施設でくらすことを余儀なくされた子どもたちは、家族に対してどのような思いを抱いてくらしているのかについて見ていきます。

 

 親や家族、過去の自分と切り離された日常に生きる子ども
施設の中で、子どもが日常的に親や家庭のことを積極的に話すことはありません。まして大人が「心にためていることを話してごらん」と水を向けたところで、話してくれる子どもはほとんどいません。

 

最も身近な信頼できるはずの大人=親から傷つけられ、自分の意思とは無関係に施設に「入れさせられた」体験は、容易にそのこころを開くはずはありません。

 

簡単に言葉にしてしまったら傷ついた自分を認めてしまうことになる、自分を傷つけたけれど好きな家族を否定することになると思う気持ちもあるでしょう。

 

彼らが今どのように親や家庭のことを考えているのか、過去に受けてきたことは心の中でどのように処理されているのか(あるいはまったく手つかずのままなのか)、これから先のことをどのように思っているのか(いないのか)、どれ一つとっても深く重たい問題です。

 

考えてみてください。ある日突然、生まれ育った環境から引き離されて全く知らない場所で、知らない人たちとくらすことになることが、どれほどの緊張感や恐怖感、無力感をもたらしているのでしょうか。

 

自分を殴って傷つけたひどい親でも、たった一人の親です。親はなぜあんなにひどいことをしたのか、愛されてはいなかったのだろうか、自分がかわいくなかったのだろうかという問いは、子どもを苦しめます

 

たった一人の親と離れてくらす寂しさもあります。そして、虐待をした親ではなく、全く罪のない子どもである自分が家から離れ、親は家にいてこれまで通りの日常を続けるという理不尽さを、どうしたら納得できるでしょうか。

 

これらの思いは、小さな子ども達には言葉にしきれません。言い方を変えると、言葉にしきれないほどの複雑なことが自分の身に起きていることを、どう表現したらよいのかわからないということです。

 

 過去の自分と今の自分の揺らぎに耐える
施設での生活が長くなれば職員に叱られたり、子ども同士でトラブルが起きたり、学校の集団でなじめなかったりと、さまざまな課題も出てきます。そのようなとき「親に会いたい」、「家に帰りたい」気持ちが出てくるのも当然です。

 

施設にいる間に家族と交流できる子どもばかりではありません。中には入所して一度も親と会ったことがない子どももいます。

 

すると子どもの内面では理想化という現象が起こります。自分を傷めつけた親を「やさしかった」と言ったり、食べるものや着るものに困るほど経済的に困難だった家を「お金持ちだった」、「お父さんは外国で働いている」と言ったりします。

 

このように期待をしたり理想化することによって、辛い過去を「今目の前にしている辛い現実よりもマシ」と自分をしのぎ、足がぐらつかないようにしているのかもしれません。

 

施設職員が子ども達の家族への思いを知ることができるのは、わずかに子どもが発した言葉や行動からそのメッセージを受け取ることしかできません。発している言葉がこころと裏腹なこともありますし、直接には結びついていないことも多々あります。

 

わずかながらではありますが、子どもの言葉や行動の意味がどこにあるのか、何を訴えているのかを理解しようとする姿勢はなくすことができません。しかし、その姿勢を持っていたからと言って、わかることがないこともあります。

 

職員が「知り、支援をする」ではなく、「教えていただく」という姿勢がなければ、子どもはけしてこころを開いてはくれないでしょう。知りたいのは、職員ではなく子ども自身であるという尊厳を持つことも求められます。

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